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 舞台の奥に控えたガムラン・オーケストラの、ゆったりとした演奏が始まる。ついで、日本の長唄に似た旋律の女声コーラスが、あたたかい靄(もや)のようにたゆたいながらそれにかぶさると、観客達はもう物語りの世界 ---- たとえば樹木の鬱蒼とした北インド・ガンジス平原の仄暗い森の中を、主人公のラーマ王子とともに歩きはじめる。

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5月から10月の満月の前後四夜に亙って、プランバナン村の野外劇場で催されるラーマーヤナ・バレエは、ロロ・ジョングランを背景にして、華麗で幻想的な物語の世界へと観客をいざなう。

 中部ジャワの古都ジョクジャカルタ東郊 17キロのプランバナン村の野外劇場では、毎年 5月から 10月の間、満月の前後の四夜に亙って、ラーマーヤナ・バレエが演じられる。
 バリ島とならんで古典芸能の盛んなジャワにあって、この催しは特に観光の目玉としても有名で、切符を手に入れるのが難しいのだが、運よく私は二晩続きでほぼ正面の席をとることができた。
 午後七時。野外劇場の舞台の背後に聳え立つチャンディ(霊廟寺院)の照明がいっせいに点灯されると、暮れなずむ空にその細身の美しい姿が浮かびあがり、開演を待つ観客達の間に、ため息とも感嘆ともつかぬ華やいだどよめきが涌きおこる。ついで、オペラで言うと序曲にあたる、女声コーラスの混じったガムラン音楽がはじまるやいなや、観客たちは物語の世界に惹き入れられ、そのまま時のたつのも忘れて、華麗で幻想的な舞踊と音楽に酔い痴れるのである。
 舞台は、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の中核をなす幾つかのエピソードで構成されている。コーサラ国の王子ラーマが、その妃シータを拉致したランカー国の魔王ラーヴァナを、猿軍の援けをかりて滅ぼすというのがあらすじである。
 指定席の切符が手に入った二夜、私は終演後も席を立つのが惜しいような気持ちで、その舞台を堪能した。

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細身で華麗な姿のチャンディ・プランバナンの寺院群。左がブラフマー堂、右がロロ・ジョングラン(シヴァ堂)。

 翌朝、私は宿のあるジョクジャカルタから、市バスとコルト(長距離用のミニバス)を乗り継いで、ふたたびプランバナン村を訪れた。
 中部ジャワの田園風景のなかを20分ほど走ると、左手に一群のヒンドゥー寺院が見えてくる。野外劇場の舞台の背景として、闇の中に浮かんでいたチャンディ・プランバナンだ。
 ヒンドゥー教を奉ずるマタラム(カリンガ)王朝によって、8世紀末に建てられたこの細身で端麗な姿の霊廟寺院は、別名ロロ・ジョングラン(華奢な乙女)と呼ばれ、世界最大の仏教遺跡ボロブドゥールとならぶ、第一級の石造建築物であり、同時に石の彫刻美術館でもある。ともにその重要性から、1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。
 ほとんど赤道直下の強烈な太陽のもとで見る「華奢な乙女」は、昨夜の闇の中に浮かぶ幻想的な姿とはまた違った、威厳と気品に満ちた貴婦人といった風格がある。寺院群の総称としてロロ・ジョングランと呼ぶこともあるが、一般的にはブラフマー堂・シヴァ堂・ヴィシュヌ堂の三基の聖堂のうち、とくにシヴァ堂をさす場合が多い。シヴァ堂の北面の祠に安置されたドゥルガー像(シヴァの妃神)に、その名が冠されているからだ。
 伝説によれば、ラトゥ・ボコ(王)の娘のロロ・ジョングランは、意に添わぬ求婚者に結婚の条件として、一夜のうちに千躰の石像を造ることをもとめた。男が最後の一躰を造り終えようとしたとき、ロロ・ジョングランと侍女たちは大騒ぎをして夜明けを告げ、約束を無効とした。激怒した男は、魔術を弄して王女をその石像の最後の一躰に変えてしまったという。それが、このシヴァ堂のドゥルガー像だそうだ。
 なにはともあれ、私はまずその石に変えられた王女に逢いに行った。
 傾斜の急な石の階(きざはし)をのぼって、熱気のこもる薄暗い堂内にはいる。外の陽射しがつよいので、堂内の暗さに目が馴れるまで時間がかかる。しばらくすると、聖牛ナンディの背中に立ち、四対の手にそれぞれ武器などを持った、ほぼ等身大のドゥルガー像が見えてきた。「華奢な乙女」の名に似ず、薄衣をまとったその肢体はとても豊満なプロポーションで、インドのヒンドゥー寺院に祀られている女神たちのように官能的だ。 が、その表情にはジャワの王女らしい繊細さと、芯の強そうな高貴さが窺える。魔術で石に変えられたのが、つい今朝方のことのような、不思議な存在感のある石像だ。みじかい花の命に換えて千年の美を与えられた王女は、しかし、あまり幸せそうには見えなかった。
 薄暗い堂内から、ふたたび眩暈(めまい)を起こしそうなほど陽射しのつよい表へ出て、私はシヴァ堂の回廊を飾るレリーフをゆっくりと見て歩いた。「ラーマーヤナ」をモチーフにした精緻で生き生きとしたそれらの石彫は、昨夜の華麗な舞台を彷彿させた。これより百年ほど前に造られた、ボロブドゥールの回廊を飾るおびただしい数のレリーフも確かに素晴らしいが、その線の柔らかさ表情の豊かさの点では、ロロ・ジョングランのほうがまさっている、と私は思う。もっとも、仏教経典をモチーフとするボロブドゥールと、自由なファンタジーの「ラーマーヤナ」とでは、その表現の目指すところがおのずと異なるから、単純に比較するのは誤りかもしれない。

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インドの叙事詩「ラーマーヤナ」をモチーフにしたロロ・ジョングラン(シヴァ堂)のレリーフは、柔らかな線と豊かな表現で見るものを魅了する。

 どれも素晴らしいレリーフだが、なかでもとくに私の目を惹く一場面があった。ふたりの嫋(たお)やかな女性に向かって、一匹の猿が身振りをまじえて何やらさかんに語りかけている。おそらく「ラーマーヤナ」の第五篇「美麗篇」(スンダラ・カーンダ)の一場面だろう。ランカー国の魔王ラーヴァナの宮殿に囚われの身のシータのもとへ、斥候として忍び込んだ猿軍の将ハヌマンが現れて、ラーマの救援の間近なことを告げている図だ。興奮気味にしゃべるハヌマンの声や、シータと侍女との可愛らしい歓声が聞こえてきそうな、生命感にあふれた傑作である。
 これを彫った石工は、歴史にその名を遺さなかったが、こうして自らの命を石に刻み込むことで、彼の生涯の何十倍もの歳月を、シータやハヌマンの姿で生きつづけ、毎日大勢の人々に小さな感動を分け与えている。
 周りに誰もいないのを確かめてから、私は両手を伸ばしてシータとハヌマンにそっと触れてみた。南国の太陽をいっぱいに浴びた彼らに石の冷たさはなく、ひとの体温よりもむしろ熱いほどのぬくもりを、私の掌に返してきた。これを彫り上げたときの石工の歓びを私は感じた。
 回廊ばかりでなく、聖堂の基壇や欄干や小祠にも、おびただしい数のレリーフや彫像がある。いわゆるプランバナン・モチーフと呼ばれるライオン、上半身が人の姿をした鳥キンナラ、踊り子や楽士、動物、そして天上の神々。どれもみな聖堂に安置されたシヴァやヴィシュヌやブラフマーなどの尊像にひけをとらない、みごとな石彫だ。よく、バロック音楽と当時の教会建築とが対比されるけれど、このロロ・ジョングランもまた、ガムラン音楽の調和的世界に対応する、視覚的にそして宗教的に完結したひとつの小宇宙をかたちづくっている。無数の精緻なディテールが集まって、圧倒的な強さと均衡のとれた美しさで屹立するその姿はちょうど、聴くものの魂をしっかりと捉え、たちのぼる薫香のようにたゆたいながら、ヒンドゥーの神々の座す天上界へといざなうガムランの調に喩えられるだろう。まさに、石が奏でる天上の音楽である。

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多羅菩薩を安置して8世紀に建てられたとされるチャンディ・カラサン。その南門を守る鬼面カーラはこの種の石彫のうちで屈指の作といわれる。

 一通り見て歩いたら昼になった。私は寺院を出て、野外劇場近くのみやげものやが軒を連ねる一郭のワルン(軽食堂)にはいり、エス・チャンプール(インドネシアふう氷蜜豆)と、ミー・バソ(肉団子入りスープ麺)を食べた。どちらも、ごくありふれたメニューで値段も安い。そして、旨い。
 午後は、バス停前にたむろしている馬車を一台雇って、村の周辺に散在している幾つかの遺跡を見て廻った。車社会に暮らすわれわれの感覚では、馬車をチャーターするなどたいへんな贅沢のようだが、この国では馬車は庶民の足。タクシーに乗るよりずっと安い。当然時間はかかるが、もとより私の旅にスケジュール表などない。
 とはいうものの、カンカン照りの太陽のもと、緑一色のジャワの田園風景の中を、眠たくなるような馬の蹄の音を聞きながら、馬車に揺られていること自体が、ずいぶんと浮世離れのした贅沢と言えるかもしれない。

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チャンディ・プラオサンは仏教を奉じたシャイレンドラ王朝後期(9世紀中頃)の仏教寺院で、その二層の堂内には六躰のみごとな菩薩像がのこされている。

 それぞれ特徴のある古代ジャワの美しい遺跡を一巡りして、それを牽く馬とおなじくらいくたびれ果てた客の乗った馬車が、もとのバス停前に帰り着いたのは夕暮れだった。今夜のラーマーヤナ・バレエの観客を乗せたバスやタクシーが、そろそろ野外劇場前の広場に着く時刻だ。
 道路脇に立ってジョクジャカルタへ帰るバスを待ちながら、私はもう一度ロロ・ジョングランを眺めた。茜色の空に燃えあがる真っ黒な炎のようなそのシルエットは、ワヤン・クリ(影絵芝居)で世界の象徴として使われる、先のとがった団扇の形のグヌンガンに似ていた。
 開演前のリハーサルをしているのか、野外劇場からガムランの調が幽かに聞こえてきた。その心地よい音色は、黄昏のジャワの田園を包む夕霞のように、ひくくゆるやかに流れた。

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6メートルもの火山堆積物の下から1966年に発見されたチャンディ・サンビサリは、ジャワの田園風景に溶け込んだかわいらしい寺院だ。

by 小峯 昇

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